ゾーンプレスと中田英寿とロベルト・バッジオ

 サッカー 欧州リーグは、イタリア セリエA、ドイツ ブンデスリーガ、スペイン ラ・リーガ、イングランド プレミアリーグが、欧州4大リーグ、そこにフランス リーグ1を加えて、欧州5大リーグと呼ばれ、選手と資金が集まるリーグとなっている。

 Jリーグが始まった頃、欧州5大リーグで一番レベルの高かったのが、イタリア セリエAで、当時は、セリエAでプレーすることが、選手の1つのステータスであった。

 当時のセリエAでは、世界中から超一流の選手が集まり、激闘を繰り広げていた。

 当時の日本代表のエースである、中田英寿も、セリエAで活躍し、所属クラブの17年振りのリーグ制覇に、サブメンバーであったが貢献したことから、現地の一部のファンからは、今でもカルト的な人気を博している。

 私も優勝の行方を占う大一番の試合で、後半30分からクラブのエースで、当時の現役のイタリア代表の10番であるフランチェスコ・トッティと交代してピッチに入り、15分間で1得点を決め、その他に1得点に絡み、逆転勝ちした事実は、衝撃的過ぎて、今でも偶に夢に思い出すぐらいである。

 中田英寿は、現役時代から海外移籍先のイタリア、イングランドの現地語を習得し、母国語の日本語をあわせて3ヶ国語を自在に操ったり、代表合宿のバス移動の時、哲学書や税理士資格の本を読むなど、頭脳明晰な人物でも知られていた。

 攻撃のタクトを振るうポジションで、技巧派というよりは、フィジカルと判断力に優れた印象が強かったが、通常より早い30歳にして、怪我により、惜しまれつつ現役を引退した。

現在は、サッカー界から軸足を動かし、8ヶ国語を操り、食、工芸を含めた日本文化を世界に広げるための実業家として、活躍しているそうだ。

 以前、私の地元の酒造メーカーを彼が訪れ、社長と真剣に会話をしている場面を、たまたまメディアで拝見したのだが、その時は、あんな東北地方の片田舎に、サッカーの名選手が来てくれた、と心から驚いた。

 また、彼は、現役時代、メディア嫌いで有名で、クールなイメージがついているが、その真意は、ミーハーで浮かれた質問をしてくるメディアが嫌いだった、というのが理由らしく、現在、極稀にメディアに出演すると、人懐っこい笑顔で、にこやかに対応しているようだ。

 当時流行していた戦術は、ゾーンプレスと呼ばれ、FW(フォワード)、MF(ミッドフィルダー)、DF(ディフェンダー)で構成される3本のラインを、通常よりもコンパクトに、タイトに保ち、その密集の中で、ボールを奪い、攻撃に転じる、というものだった。

 テクニックに秀でた選手は、独力でそのゾーンプレスを掻い潜り、ゴールを決めるため、当時は、ファンタジスタ、として称賛されていた。

 ゾーンプレスVSファンタジスタ、が当時のサッカーの大きなトレンドであった。ファンタジスタと言われる往年の選手は、たくさん存在するが、私は、その中でも、当時、イタリア代表でも10番を付けたことのある、ポニーテールが似合う男前のロベルト・バッジョを挙げたいと思う。

 その端正の顔立ちと同様、プレースタイルも非常に華麗だった。

 ロベルト・バッジョは、18歳でプロデビューした際、右膝に大怪我を負い、現在の医学であれば内視鏡手術で対応する負傷を、当時の医学では膝を開かなければ手術ができず、18歳にして100針近くを縫う、大手術を行った。

 怪我が勲章になるのは、プロレスラーぐらいなものだが、彼はその怪我にも負けず、毎日、トレーニング前に1~2時間程度、膝のトレーニングを行ってから、クラブの全体練習に参加していた。

 彼のポジションは、俗に言う、攻撃的MFだったが、膝の大怪我が嘘のように、両足を使い、味方FWに決定的なスルーパスを出したり、パスが出せないときは、華麗な個人技で敵を抜き去り、ペナルティーエリアに侵入し、GK(ゴールキーパー)を嘲笑うようなシュートを決めていた。

 私がちょうど海外のサッカーに興味を持ち始めた頃、全盛期を迎えた選手だったので、その選手は、崇拝すべき象徴として、私の中では、今でも輝いでいる。

 1994年のアメリカ サッカーワールドカップの時、彼はイタリア代表で10番を付け、チーム戦術であるゾーンプレスの役割を免除され、1人、フリーマンとして活躍した。

 その大会でイタリア代表は、序盤、硬さが取れず苦戦したが、10番の彼の活躍で、次第にチームとして調子を取り戻し、決勝まで勝ち進んだ。

 決勝では、当時最強と呼び声が高かったブラジル代表と対戦し、延長を終えても0対0のドロー、勝敗は、PK戦で決められることになった。

 イタリア代表の1人目のキャプテン、フランコ・バレージがPKを外し、イタリア代表が劣勢のままPK戦が続き、10番の彼の順番が回ってきた。

 彼が外せば、ブラジル代表が優勝する、その場面で、彼は、普段滅多に外さないPKを、外してしまった。

 歓喜するブラジル代表の中で、1人佇む、10番の彼は、大会を象徴する場面として、何度も放映された。

 彼の技術は、戦術に収まることがなく、クラブの監督と衝突し、出場機会を失うことも多々あったが、彼はその度にクラブを移籍してゴールで結果を残し、自分の存在を証明した。 

 1998年 フランス サッカーワールドカップの開催前年、彼は、監督との確執から所属クラブでの出番を失っていた。

 彼は、イタリア代表に選出されるために、出場機会を求めて、セリエAの格下のクラブに移籍した。

 彼はその時、トレードマークのポニーテールをバッサリ切り、短髪にした。

 私は、彼の決意を感じずにはいられなかった。

 彼はそのシーズン、ゴールを量産し、20ゴール以上を記録した。

 左記の結果を受けて、彼は、フランス ワールドカップに出場するイタリア代表のメンバーに選出された。

 記憶が確かならば、確か、これは、彼が30歳前後の出来事で、まだ科学的なトレーニングが一般化されておらず、選手寿命が現代よりも短かった当時としては、特筆すべき事象だったと、私は感じている。

 フランス サッカーワールドカップで、彼は、試合を決めるジョーカー的な役割を与えられ、年長者として、その役割を全うした。

 イタリア代表は、決勝トーナメントの試合で、またしてもPK負けを喫したが、そこには、PKを失敗した選手を慰める彼の姿があった。

 怪我との付き合いの方が長かった彼のサッカー人生は、終わりを告げ、今は、趣味の狩猟を楽しみながら、暮らしていると聞く。

 また、欧州圏出身者には珍しく、彼は仏教に帰依しているらしく、その繋がりで、何度か日本にも来日しているらしい。

 ちなみに私は、当時のイタリア代表のユニフォームである、アズーリ色のシャツをネットオークションで都合4枚購入し、部屋着として愛用している。

コメント

タイトルとURLをコピーしました